キンコン西野 伝説のスピーチ「人生に失敗など存在しない」平成30年度近畿大学卒業式
キングコング西野のスピーチ
友人にこの動画を薦めてもらったので見てみたが面白かった。まず見てほしい。「マルチ商法と同じだ」だとか、「何かの焼き直しだ」だとかいう意見もあるらしいが、私は素晴らしいスピーチだと感じた。「人生に失敗など存在しない」私もそう思う。
一応私の考えとの相違点を書く
西野はこう言っている。未来は変えられないけど、過去は変えられる。昔の失敗も笑いに変えることができる。だから理論上、人生に失敗など存在しない。
- 作者: 西野亮廣
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2017/10/04
- メディア: 単行本
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ざっくり言えば私はそうは思わない。さっき「私もそう思う」と書いたではないかとお前らは思うかもしれないが、決して矛盾はしていない。アプローチが違うのだ。私にとって人生とは今この瞬間であり、過去という概念も未来という概念も存在しないのだ。前にも書いたが、人生は1日という点の集合体である。過去と未来というのは、偶然の産物である。今日と明日はたまたま隣に並んでいるだけに過ぎない。だから過去の失敗は「人生」にはカウントされない。ゆえに「人生に失敗など存在しない」のだ。ここで西野と同じ結論が出た。だから私は西野と同じ意見を持っている。そういう意味で私はそう思うと表記した。
本題
一応ちょろっと私の意見も書いたが今日の本題はここから。「喋ること」と「書くこと」についてだ。西野のスピーチを聞いて私は西野は喋るのが上手だと感心した。同時にこうも思った。「書くこと」よりも「喋ること」のほうが啓蒙としては効率的なのではないか。つまり、「耳に残る」は「目に焼き付く(※)」よりも遥かにハードルの低い事象なのではないかということだ。この世の全ての書物を否定するかのような文章だが、間違ってはいないだろう。「書くこと」はマクロな時間スケールで見た時の「記録」という意味では有能であるが、受け取る側の「一瞬の心情の変化」という意味では無能である。「啓蒙」すなわち「諭す」ことにおいて、必要なのは文字じゃなくて言葉だ。そもそも「諭す」という文字には「言」が含まれている。
※文章に対して「目に焼き付く」という表現はおかしいと感じるかもしれないが、文章は視覚的に捉えるものにも関わらず、視覚的なインパクトがゼロである。そのことを皮肉するために、文章に対して「目に焼き付く」という表現を敢えて用いた。
「書くべきか」「喋るべきか」
私は喋ることがあまり上手ではない。西野のように10数分で会場の心を鷲掴みにし、首尾良く綺麗ごとを述べることなど到底不可能だろう(やったことがないのでわからないが)。結局「書くべきか」「喋るべきか」は発信する側の器量次第だと思うのだ。ただこの2つには根強い相関関係がある。小説家が面白いスピーチをしたり、芸人が面白い文章を書いたりすることは珍しくない。つまり「書くべきか」「喋るべきか」は大した問題ではないのだ。問題なのは次だ。
「読むべきか」「聞くべきか」
議論されるべきなのはこれだ。さっき「耳に残る」は「目に焼き付く」よりも遥かにハードルの低い事象だと提唱した。だから私は「読むべきか」「聞くべきか」と聞かれたときに「聞くべきだ」と皮肉ながらブログに書かなければいけない。そこがブログの限界であり、私の目指す場所でもある。
極限の受動
だから極限の受動を目指すのであれば、ノートを取ることは非効率だ。喋っている人の目を見て聞くこと。それが極限の受動であり、真に自分の脳味噌に身に付くということだと私は提唱したい。ノートは脳味噌に身に付いたことを整理するために使われるべきであり、インプットするための道具ではない。低学歴ほどノートをしっかり取ると聞くが、それはこういうことがゆえだと思うのだ。
だが最後に1つだけ言っておきたい。聞くことは極限の受動であると同時に完全なる受動でもある。だが、読むことは受動であると同時に能動でもあると思うのだ。何を読み、何を感じるか。そこで人間としての資質に差が出てくると思う。私は読んだ人の資質が上がるような文章を書けているだろうか(到底そうは思えないが)。
少なくとも読んだ人の頭が悪くなる文章なら書けるかもしれない。それではまた明日。