年寄りに席を譲る
今の日本には「基本的人権の尊重」の名のもとに、弱者を保護するのは良いことであるという風潮がある。さらに強く根付いた「儒教的な観点」から年上は敬うべきだという風潮もある。それが体現されているのが、電車で年寄りに席を譲るという行為である。この行為について議論をしたいというか、改善点を示したいと思う。
席を譲ることが「絶対善」とは言えないこと
まず、席を譲るのは絶対的に良いこととは言えないだろう。年寄りの中にはそういう風に声を掛けられるのを嫌に思う人がいるかもしれないし、自分が年寄りに見られたことに対して心外に思う人がいるかもしれない。だがしかし、席を譲る意思を見せるということは「マナー」の名のもとに絶対的に必要とされているのだ。最低限というか、まず最初の段階として、年寄りに席に座りたいかを聞く必要がある。タイトルの回収をすると、譲るべきかどうかは状況によって異なるが、譲る意思は見せる必要がある。といった感じだろうか。
- 作者: 岩下宣子
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「どうぞここ座ってください」ではなく「ここ座ります?」にすればいい
席を譲ろうとした若者が「どうぞ座ってください」と言うと、年寄りが「年寄り扱いするな」と声を荒げる。この現象を無くすにはどうすればいいか?さっきも書いたが、若者側が席を譲る意思を見せるというのは絶対条件としてあるのだ。だからといって年寄りが自ら座りたいか座りたくないか自主的に意思表示するというのもまた違うだろう。
じゃあどうすればいいか?答えを提唱したい。「否定」ありきで聞けばいい。「ここ座ってください」ではなく「ここ座りますか」と聞けばいいのだ。そうすればさっき「年寄り扱いするな」と言った年寄りは「いや結構だ」と言うと思う。彼らにとって「どうぞ座ってください」は「座れ」と同じニュアンスなのだ。お前らのその気持ち悪い作ったような笑顔でいかにも媚びへつらうかのように言うその言葉は、彼らにとってはむしろ命令のように聞こえるのである。
だから死んだ顔で高圧的に「ここ座ります?」と聞けばいい。向こうに選択させればいいのだ。それで「あらいいんですか。ありがとう」と言って向こうが座る意思を見せればそれでいいし、「結構です」と断られてもそれでいいことになる。
愛想は良くすりゃいいってもんじゃない
こんなのは一例に過ぎないが、愛想が良いということが絶対的に良いという解釈は間違っていると思う。「愛想が良い」には「メリット」もあるし「デメリット」もあるのだ。確かに愛想の良い人間のほうが人に好かれやすいかもしれないが、愛想を良くすることで労力も使うだろうし、詐欺にも遭いやすい。何より「軽い」という印象がつくことにも繋がる。
だから互いに死にそうな顔をすればいい。双方が死にそうな顔で会話すれば、そこに無駄な感情は入らない。そもそも電車の席を譲るという行為は事務的であるべきだ。良心というものは絶対的には成立しない。だったらニュートラルにしたほうがいい。
無論今の若者は画面に夢中で目の前に年寄りが来たことにも気付きはしないが。それではまた明日。