かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

【井上尚弥】「怪物」は心の中にいる。

井上尚弥の世界戦があった。朝4時はさすがに起きれない。結果は後で知った。試合の映像も見た。だがそこに語るべきことは特に残されていなかった。

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怪物

最近「怪物」という言葉が安売りされている気がする。ちょっと成績を収めれば「〇〇の怪物」というような文言がメディアで並べられる。令和の怪物なんてのは最近の決まり文句にもなっている。「天才」だとか「神童」だとかいう人間味のある肩書きならまあわかる。だが「怪物」というのは人間の域を超えた存在であり、そうそう安売りすべき言葉ではないんじゃないかと思う。まあどうでもいいか。少し違和感を感じただけだ。

そういう前置きを踏まえても、「怪物」と評して文句のない男を私は知っている。井上尚弥。格闘技にあまり詳しくないという人、嫌悪感を抱いているという人もいるかもしれないが、そんな人にも知っておいてほしい男だ。彼が「怪物」である。彼よりも「怪物」と呼ぶにふさわしい男を私は知らない。

格闘技は「神聖」なものである

私が格闘技を好きなのには理由がある(好きといってもニワカの域かもしれないが)。それは格闘技の「神聖さ」だ。人と人とが殴り合う。生きるか死ぬかでそこに逃げ場はない。特にボクシングは本来人間が持つべき行動本能をもっとも最大限に生かしているスポーツだと思う。人間の「本来あるべき姿」を見ることができるのだ。だから格闘技は神聖なのだ。いわばこの現代社会におけるオアシスのようなものじゃないかと私は思う。仮面を被って生きていても、格闘技を見れば本来の姿に戻ってくることができる。

井上尚弥について

こんなタイトルのブログを読んでいる人には説明不要だろうが、井上尚弥とはプロボクサーである。詳しく経歴などを説明するのは面倒なので(お前らもリンクからいちいち飛ぶのは面倒だろうから)一応成績一覧を持ってきた。文字じゃ凄さが伝わりきるはずもないが、凄いというのはわかってもらえるはずだ。

 

 

 

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本題

このブログでは、「怪物」井上尚弥を「怪物」たらしめるものは何なのか。それについて少し個人的に考察していきたいと思う。

この考察をするうえで、どうしても触れておかなければいけない試合がある。プロ転向3戦目、佐野友樹との試合だ。伝説の試合である。井上にとって初めて10ラウンドを経験した試合でもある。

伝説の1戦

 

当時、井上尚弥は日本ライトフライ級6位。佐野友樹は1位だった。

当時から井上尚弥はスターだった。数か月前にタイ王者を1ラウンドで沈めての一戦。フジテレビがゴールデンタイムで中継するほどの注目度だった(見ていた人も多いのでは)。テレビ中継の主役はもちろん井上だった。だが佐野もプロ23戦でわずか2敗の実力者。31歳でもう先は長くない。若造に一泡吹かせてやろうと並々ならぬ覚悟だったはずだ。

世間の関心は「怪物」がベテランの実力者をどう倒すかだった。井上は戦前から散々もてはやされ、煽られた。普通なら相当なプレッシャーがかかるだろう。

ゴングが鳴った。「怪物」は攻勢に出る。1ラウンドで左アッパーがモロに入った。佐野の瞼は切れた。血だらけになった。2ラウンドで左フックが入った。ダウン。終わったかと思われたが佐野はカウント8で立ち上がった。

ここで「怪物」にアクシデントが襲った。右ストレートで拳を痛めたのだ。だが「怪物」の優勢は変わらなかった。4ラウンド。カウンターの左フックが入った。2度目のダウン。だが佐野は立ち上がった。血だらけになりながらも必死に食らいつく佐野、左手一本で試合を支配する「怪物」。物凄い試合だった。

5ラウンド以降、「怪物」も息が上がってきた。パンチを食らっても食らっても佐野は怯まない。すると井上一色だった観衆の風向きが変わってきた。血だらけになりながらも必死に戦う佐野を応援し始めたのだ。客席では佐野コールも起きた。だが「怪物」は至って冷静だった。体力面が厳しくなってくると防御に徹し、一瞬の隙を見て的確にパンチを当てていた。

そして10ラウンド。レフェリーが割って入り、佐野を抱きかかえた。レフェリーは「佐野、ごめんな」と言ったという。闘いは終わった。試合後、新聞やメディア各社は「井上、左手一本でKO勝ち」と大々的に報じた。だが世間は違った。佐野を称賛する声が各所で上がっていたのである。

「怪物」は心の中にいる

 

無論私はこの試合で、別に佐野が素晴らしい選手で井上がヒールだったという話がしたいのではない。いかに井上が「怪物」か。この試合にはそういった要素がいくつも含まれているのだ。

井上がこの試合に臨んでいた状況はあまりにもタフだった。試合前は散々煽られ、拳を負傷し、敵はどれだけパンチ浴びせても倒れない。観客は敵の名前をコールしている。並の人間なら「焦り」だとか「力み」というものが出てきても当然なのに、井上はそういうものを全く出さなかったのである。それどころか一瞬たりとも隙を見せなかった。井上はたしかにパワーもスピードも凄まじい。だが、井上を「怪物」たらしめるものはそんなものではない。心だ。何があっても動じないその心の中に「怪物」はいるのだ。だから倒すことができないのである。我々の見えないところに「怪物」はいるのである。だから敵は彼を攻撃することができない。井上が負けない理由がそこにある。

それから6年、井上と戦うこと自体が称賛されるようになった。井上と戦うこと自体に価値があることであり、もはや勝敗という次元に乗ってこないのである。それが「怪物」というものである。「怪物」とはそういうものだ。そういうものであるべきだ。

「怪物」は心の中にいる。井上尚弥。次の試合はリアルタイムで観戦したい。それではまた明日。