かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

科学の研究に実用性を求めるのは野暮だという件。

基本的に理系の人間が自分の研究について人に(特に理系ではない人間に)あれこれ説明すると、だいたい「それって何の役に立つの?」と聞かれることが多いと思います。でもその質問って結局野暮だよなというのが個人的な感覚としてはあって、今日はそれについてちょっと書いて行こうと思います。

私も含めて、自分の研究に対して実用性があると思っている研究者というのはあまり多くなくて、基本的には「実用性があるとは思っていない・実用性があるかはわからない」というのが本音だと思います。ただこの「実用性があるとは思っていない」という表現には若干の語弊があると思っていて、正確に言うと、「速効的な実用性があるとは思っていない」ということになると思います。言い換えると、「今の人類への寄与という部分に限定すれば」この研究は意味が無いということになりますかね。

これについて補足していきますが、人類の発展というのは近年めざましく、生活様式というのは刻一刻と変化していきます。そういった状況の中で、今は役に立たなくても、10年後、100年後、あるいは1000年後には何らかの役に立つかもしれない。そういった時間経過に伴う人類の発展、進化に貢献していくというのが研究の主たる目的だと個人的には思います。もちろん現在の生活をよりよくするという部分に貢献するという考え方もありますが、むしろそこは科学の本質ではないのではないでしょうか。

極端な例を出すとわかりやすいので、ちょっと挙げたいと思います。中世の科学者ニュートンは力学や微積分の研究をしていましたが、果たしてそれが当時の人々の生活にどう寄与したかというと、それは全く寄与しておらず、「無駄なこと」だったと思います。当時の人々にとってはリンゴが下に落ちる理由がなんであろうがどうでも良かったでしょうし、Xの2乗の微分が2Xになろうが特段生活にはなんの影響もありませんでした。ところが今現在、ニュートンの研究は世界中のいろんな場所でいろんな人の生活に影響を与えています。毎日多くの人が利用する航空機は、原理としての基礎の部分でニュートン力学が大きく関わっていますし、今我々が使っているPCのシステムといった部分にも、微分積分といった要素が大きく関わっています。ニュートンの研究は当時の人々の生活をよりよくするには至らなかったですが、現代の人々の生活は間違いなくよりよいものにしました。この例からもわかる通り、研究発見発明があって、発展進歩があるわけですが、それが必ずしも連続的に起きるわけではないのです。

当時のニュートンは鉄の塊が空を飛んで人を運ぶだとか、薄っぺらいセラミックの板が人間以上の計算能力を持つだとか、ましてや自分の作った数式がそれらを作るうえで役に立つだとかとは微塵も思っていなかったはずで、それは現在の科学者にも同じことが言えると思います。今は確かに実用性は無いかもしれない。今後いつどのようにして実用性が生まれてくるかもわからない。全く実用性が無いまま人類は滅んでしまうかもしれない。そういった不確定要素の塊模索していくのが研究であり、人類がそういった研究の恩恵で発展、進歩を続けてきたというのは紛れもない事実です。

「その研究にお金や時間をかける必要性はあるの?」という意見はどの時代の科学者にも言われてきたことであり、それは現代においても変わりません。国の支出における科学への予算というのは毎年縮小の対象になりますし、実際に縮小されてきました。確かに科学よりも大事なことというのはたくさんあると思いますし、そんな先の見えない、成果が出るかわからないということにお金を出すなんてもったいないという主張は正しいと思います。ただ、今研究をやめてしまっては、今後人類が享受するであろう科学の恩恵が無くなってしまう。10年後100年後に発展、進歩するはずだったものが発展、進歩しなくなるということに繋がりかねません。だから我々は研究を続けますし、例えそれに実用性が無くても、我々は自分の研究に誇りを持てるのです。

だからこそ、「それって何の役に立つの?」という質問は野暮な質問だと思いますし、そこの議論に科学の本質はありません。

以上です。中の人の就職活動は終わったので(とんでもない年に就活してしまったなというのが感想です)、これからこういった週中の討論記事が増えていくかもしれません。頑張って書いていくので、今後とも当ブログをよろしくお願いします。それではまた明日。