かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

宿題は嫌ならやらんでいい

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先日サッカーの本田圭佑ツイッターで「宿題は嫌ならやらんでいい」と発言し、それに対してちょっとした論議がなされていたので、これについてちょっと書いていきたいと思います。

宿題の有用性

学校を「社会に出る人間を養成する施設」と仮定するのであれば、宿題によって、いわゆる「勤務時間外」にタスクを強制させるというのは非常に意義のあることだと思います。宿題によって日々の生活に制限をかければその制限に対する耐性が少なからず身に付くと思いますし、やらなければいけないタスクを残した状態での時間管理を自分の中で早期に確立することにも繋がります(どれくらい後回しにして大丈夫かという概念は非常に大事)。

ただ宿題に有用性があるかどうかということと、その宿題をやるべきかやらないべきかということについては必ずしも互換的に考えるべきではないと思っていて、これについて説明していきます。

宿題をやらないことによるメリット

例えばその宿題を「究極的にやりたくない」場合、その宿題をやるべきかやらないべきかというのは、その宿題の有用性だけには依存しません。そこには当然宿題をやらないことによる「罰則」の度合いが絡んでいます。例えばその宿題をやることによる体力的、精神的負担に比べて、宿題をしなかったことによる罰則が軽い場合というのは当然あるわけで、その場合は当然宿題をしないという選択肢を選んだほうが自分にとってプラスになるということもあるわけです。ただそのような天秤を使うためには、ある程度の経験則が必要となってきます。

①この宿題はあまりにもダルいが、やらないと成績に響くのでやっておこう。

②この宿題はあまりにもダルいし、やらなくても大して成績には響かない。適当に謝って済ませよう。

③この宿題はやってもさほど成績には反映されないが、そこまでダルくない。念のためやっておこう。

④この宿題はやってもさほど成績に反映されないし、そこまでダルくないもののやらなくていいや。

①~④のような取捨選択は長い人生の中で幾度となく必要となってきます。そう考えればある程度宿題をサボることで、どこまでサボって行けるのか。あるいは自分はどこまでならサボらずこなすことができるのか。という判断を正確に行う術を、若い内から身に付けておくことができます。与えられた宿題をバカの一つ覚えで全てこなしていては、いざタスクの量が自分のキャパシティーを超えたときに対処できなくなってしまいます。そういったことを防ぐという意味でも、宿題なんていう長い人生から見ればどうってことないタスクを利用して、サボる技術サボっていい限界を見定めておくということは、間違いなく自分の人生に深みを与えてくれるのではないでしょうか。

個人的に「真面目さ」と「人間的な浅さ」は表裏一体だと思っていて、どこかで抜かなければやはり深みは出ないと思います。そりゃあクリスティアーノ・ロナウドのように全てにおいて完璧という人間はごく稀に居ますが、それはなんというか人間的では無いと思います。本田圭佑のように、ちょっと抜いている(奇をてらっている)部分があるからこそ深みが出る。そういう意味での「宿題は嫌ならやらんでいい」っていう発言は、少なくとも私はいい言葉だなと感じます。

というわけで就活も忙しいので、今週のゼミレポートはサボります。それではまた明日。