かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

差別を肯定できる社会を。

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コロナウイルスの脅威が列島に押し寄せてきているさなか、アメリカではインフルエンザがパンデミックしており、1万人弱の犠牲者が出ています。

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このような状況の中、「中国人の入国は規制するのにアメリカ人の入国を規制しないのは差別だ」という旨のツイートを目にしました。そのツイートに対してコロナウイルスの致死率はインフルエンザの10倍以上。医療機関が治療のノウハウを持っているインフルエンザと一緒にしてはいけない。差別ではなく区別だというリプライが来ていたのですが、私としてはどうもこの返し方が釈然としないんですよね。なぜそこに差別は絶対ダメだという前提がなければならないのか。そこにどうしても引っかかってしまいます。

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「差別をしてはいけない」「差別は悪いもの」であるということに関しては、もちろん私も異論はありません。ただ今回の件で言えば、コロナウイルスの感染拡大を防止するという「正当」な理由の下で、いわば中国人を差別するということになるわけです。「理不尽な差別」はもちろん絶対悪ですが、「やむを得ない差別」は果たして絶対悪といえるのでしょうか?

世の中には一方から見れば「善・正義」であるものの、もう一方から見れば「悪」であるという、「二面性」を持つ事柄がたくさん存在します。ならば、一方から見れば「差別」であるものの、一方から見れば「善」であるという事象に対して、差別をするべきかしないべきかについてはその「善」「差別」の程度の大きさを加味して議論されるべきではないでしょうか。今回の件なら、「どうしても日本に行きたい中国人」と「コロナウイルスが日本で感染拡大するリスク」が天秤にかけられるわけですが、圧倒的に後者のほうを重点的に汲み取る必要があるというのは自明だと思います。そこに「差別」というワードが入ってくるだけで、その天秤が揺らぐような風潮があるのはどうなんでしょう。

「差別はダメだ」が拡大解釈されて「ダメな差別もダメだ」になってしまうことはあってはならないことだと思います。物事を表面的ではなく多面的に捉え、本質的に問題を解決しようとすることが重要ではないでしょうか。そのためにも、時には差別を肯定し、適切な議論をしていけるような社会を作っていかなければなりません。

 

足を踏まれた人間は、足を踏んだ人間を非難する。足が痛くない私たちも、足を踏んだ人間を非難する。それって本当に正義なの?

健康第一。それではまた明日。