かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

京アニ犠牲者実名公表に思うこと。

京アニ放火事件の犠牲者の実名公表があって、ツイッターでは大々的なマスコミ袋叩きの祭りになっている。犠牲者の実名を公表しないよう求める署名の提出が今日というこのタイミングでの公表ということもあり、マスコミのタチの悪さが際立ったこともあってのこの騒動なわけではあるが、正直このマスコミ叩きの文言には疑問点も多い。ちょっと解説していく。

そもそも「遺族の気持ちを考えろ」「金のためなら死者もネタにするのか」というのが的確な論点なのかという話をまずはしたいと思う。まず犠牲者の実名公表には、本来「事件の残酷さ、悲惨さを伝えることにより、同じような事件が今後起こらないようにするための抑止力を作る」という効果がある。果たして今回の京アニ事件において、犠牲者の実名を公表することは抑止力に繋がるのだろうか?これが本来あるべき論点であると思うのだ。

もちろん遺族の気持ちは尊重すべきであるというのは当然である。しかし、事件の再発防止という点を最優先にするという考え方は戦後の日本において強く根付いており、それが現在の日本の犯罪発生率の低さに繋がっていると言っても過言ではないのだ。

実名公表にこのような側面があることをないがしろにしていては、実名公表に反対意見を述べることはできないと思う。「遺族が可哀想」とか言って感情論でマスコミを批判するのなんてでも出来るわけだが、これでは本質的な反論にはならないと思う。ザッとみたところ、ツイッターでの反論や批判の類の98%はによるものだった。論を言うためにはそれなりの深い思慮と知識が必要であるが、反論をする場合にはさらに精巧な思慮知識が求められる。そのことを理解せずにただ感情にまかせて思ったことをツイートするのは、「自分は猿です」と言っているようなものである。てかそもそも140文字以内で意見を書くなんて無理ですよ。

こういう点を踏まえて意見を言うが、私は今回の実名公表に関しては反対である。理由としては、今回の実名公表が事件の再発防止の抑止力に繋がると思えないからである。というのも、この事件の被害状況は既に十分すぎるほど三者に伝わっており、既に十分な抑止力が生まれていると思う。ゆえに今更犠牲者の実名を公表したところで、さらなる抑止力には繋がらないと思うのだ。実名公表の効果が薄いとすれば、当然メディアは遺族の意思を尊重すべきである。それでもなお実名公表に踏み切るというのは紛れもなく「自らの利益のため」であり、マスコミ本来の役割から逸脱していると捉えられても致し方ないと思う。以上の理由により私は京アニ犠牲者の実名公表には反対の立場を取っている。

私の今の文章がマスコミに対する的確な反論となっているかは第三者が決めることだが、少なくとも相手側のメリットは潰したわけで、それほどズレてはいないと思う。

この「抑止力」という言葉はマスコミの武器であるから、マスコミに意見を言う際には真っ先に潰す必要がある。これを潰さない限りマスコミは痛くも痒くもないのだ。反論する際に自分の強みを生かそうとするのは愚策で、相手の強みを真っ先に潰したほうがいい。その先に論破が見える。これは討論をするうえでもっとも大事なことだと思う。

九州の方は雨に気を付けて。それではまた明日。