かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

植松聖の死刑に真っ向から賛同できない理由

www.huffingtonpost.jp

私は介護士になろうとは思わない。むしろ介護士のような低賃金のサービス業で働かないためにこれまで勉強してきた。ただ介護士は必要だとも思う。自分で生活できない人に生活させる職業は必要だと憲法に書いてあったし、そもそも私はそんなに極端な差別的優生思想を持っていないからだ。でも私は介護士はやりたくない。自分以外の誰かがやってほしいし、なんなら自分以外の誰かがやるべきだとも思っている。

こういう考えに至った時点で、もう世の中の介護士はみんな私にとっての「生贄」である。ふと思い返せば、我々の生活は数多くの「生贄」によって支えられており、それを自覚して見て見ぬふりをしている人もいれば、その存在に全く気付かない人もいる。そんな風に我々が日々享受する当たり前の幸福の中には、生贄たちによるさまざまな「犠牲」が紛れているのだ。

そんなさなか、「生贄」の1人が障がい者をたくさん殺す事件が起こった。その「生贄」はこの事件によって死刑判決を下され、判決を甘んじて受け入れた。

事件の惨さを考えれば、この国における極刑である死刑はやむを得ないかもしれない。ただあくまで私が彼に判決を下すとしたら、その判決は死刑ではないと思う。なぜなら彼は私の「生贄」だから。何より彼に対しては「私の生贄になってくれた」という恩義がある。情状酌量の余地を与えてやるしかないだろう。

もしこの世に生贄が存在せず、自分が介護士として社会に出たとして、今回のような事件を起こさなかったという保証はどこにもない。極端な表現ではあるが、彼を「生贄」にしたのは我々だし、生贄を使用した側の我々が彼の生贄生活に対して何かを語ることは出来ないと思う。ましてや生贄になる覚悟すらない人間に、「理由は何にせよ人を殺すのはダメだ」とかいう綺麗事なんて言えるはずがない。この時点で私が植松聖を否定することは不可能となったのである。

だから植松聖が裸にされて市中引き回され市民1人1人が彼の心臓にナイフを突き刺すことになったとしても(死刑とは本来そうあるべきだと思っている)、私は彼の心臓にナイフを突き刺すことはできないと思う。私はその現実から目を背け、彼が暗闇の中でイスに括り付けられ電気を浴びて勝手に死んでいくことに対して何の悲しみも抱かず、もちろん罪悪感も抱かない。私には「生贄」を救おうとする勇気も無いし、行動力も無い。ただそこに書かれた「植松聖 死刑」の見出しに対して「やっぱりそうなるか」と呟き、生活の中に潜む「生贄たち」に対して見て見ぬふりを続けるのである。

kaerun4451.hateblo.jp

P.S. 介護士を生贄と表現するのは侮辱に当たるのではないかと綺麗事を言う人がいるかもしれませんが、「自分がやりたくないことを進んでやってくれている」というニュアンスの表現となっています。多少の語弊はあるかもしれませんが悪しからず。