かえるん日記

地方馬がダービーを制す

論理的に正しいのはわかるけど、私は感情的にそれを受け付けない。

「論理的な論」を優先させるか、それとも「感情的な論」を優先させるかというのは、生きていくうえでどこかで必ず出てくる命題だと思います。もちろん時と場合に依存する部分は大きいかと思いますが、少なくとも自分の「論」を展開するうえでは、「論理的」に寄せたほうがリスクヘッジが取れて安全なのではないかと個人的には考えています。この記事では、そこら辺の理由を解説しつつ、世の中は結局「論理」なのか「感情」なのかについてちょっと掘り下げて行ければと思います。

自分の考えを表現するということ

当たり前ではありますが、世の中の人間はみんな違う境遇を持っていて、それと同時にみんな違う「考え」を頭の中に持っています。その「考え」を頭の外に出す機会というのは生きていく中で少なからずはあるわけです。裏を返せば、生きていく中で人間は、少なからず自分とは違う「考え方」に遭遇することになります。そしてその「考え方の差異」は十中八九争いへと繋がります。人間という生き物は本能的に「違い考え方を持つ人間」を敵視しますから、これはある意味必然といえるのではないでしょうか。ここに「人間は争う生き物である」という絶対的な習性が裏付けられているわけです。

そういうわけで自分の考えを公表する際には、必ずしも自分は攻撃を受けることになります。自分の考えが世界中の人々全員に受け入れられるわけがないし、「批判」というものは必然的に付いてくるのです。まずはそのことについてしっかり認識しておくことが必要ではないでしょうか。ただ裏を返せば、当然自分と同じ考えを持っている人からは「支援」を受けることができます。「表現」は「仲間を作ること=敵を作ること」とほぼ同義だと個人的には考えていますが、こういったことが理由です。

これが「自分の考えを表現すること」で起こり得る事象を網羅的に説明したものであり、意外とこれについては認識していない人が多いイメージですね。

「批判」に備えるには

「表現」することに必ず批判が付きまとうのであれば、当然その批判に対する対策を練らなければなりません。自分がその批判に対してどう向き合い、どう処理していくか。できればこういった対策は「表現」をする前段階が取っておくべきだと思います。

じゃあ具体的にどのような批判が付いてくるかについてですが、これは自分の考えが「論理的なもの」なのか、それとも「感情的なもの」なのかで大きく異なってきます。

まず自分の考えが「論理的」なものだった場合、ほとんどの「批判」はいわゆる「感情的な批判」です。つまり「論理的に正しいのはわかるけど、私の感情的には受け付けない」という類の批判ですね。実際のところ、このような批判は「こっちは論理的に正しいことを言っているのだから問題ない」という後ろ盾を利用して無視することができます。この手の批判を無視してしまえば、あとに残されたのは少しの「論理的な批判」のみです。しかしこの「論理的な批判」というのはこちらが論理的にアプローチしている以上相当にハードルが高く、いわゆる「反証」をしなければなりません。「反証」というのは「~の理由によりその論理は正しくない。こう言い切れるソースは~。私が主張するその論理というのは~であり、こう言い切れるソースは~」という作業を踏むもので、これをスマートにまとめて批判ができる人はほんの一握りの優秀な人達です。つまり「論理」にさえ基づいておけば、「表現に対する批判」に対する基本的なリスクヘッジは取れるんですよね。

一方で自分の考えが「感情的」なものだった場合、相手としては楽に「論理的批判」を遂行することができます。こっちに論理がないわけだから反証する必要もなく、なんの足かせもなく自分の「論理的主張」を振りかざすことができるわけです。結局のところ「論理」vs「論理」であるから勝負になるわけで、「論理的ではない考え」で批判に立ち向かうのは到底無理です。論理とはリスクヘッジであると同時に、当然強力な攻め手にもなり得るので。

以上のことをまとめると、やはり「表現」は論理的であるべきだと思います。感情的に表現するためには、少なくともそれは相当人の心を揺さぶるものでなくてはなりません。そう考えると、「論理的な論」か「感情的な論」かで二択を迫られた時、やはり私は「論理」を大切にしたいなと思うのです。そこには当然リスクヘッジが取れる安心感もありますし、そこで自分の「考え」を見つめ直すことにも繋がってきます。これは論理的に筋が通っているだろうか、果たしてこの考え方は本当に論理的なのだろうかと思案することで、また新たなイデアが出てくることもあるでしょう。

以上です。結構哲学チックになってしまいましたが、この手の話はカントを読めばだいたいわかるということで貼っておきます。

 

どんなに堅い剣も、論を突き破ることは出来ないだろう。

それではまた明日。