かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

考える人間は淘汰される

「非効率的タスク」をどう扱うか

社会の中で生きていると、「これは非効率的だな」「これは生産性が低いな」と思うようなタスクをこなさなければいけないことは多々あると思う。嫌々ながらそれをやる人もいれば、「これはこうしたほうがいい」と意見を述べ、却下されれば仕方なくやるという人もいるだろう。中には「これはこうしたほうがいい」と意見を述べ、却下されればそれはやらない、自分は非効率的なことはしないんだという意思表示をする非常に利己的な人間も存在すると思う。そいつは確かに間違ったことは言っていないし、ちゃんと考えたうえでの行動ではあるのだが、「経営者的観点」から見た場合は、お世辞にも賢いとは言えないのではないだろうか。

「非効率的タスク」=「利己的人間排除のためのイベント」という認識

そもそもそのような「非効率的タスク」は、そういった利己的な人間を炙り出し、組織から排除するために行っているという捉え方もできると思う。経営者の立場に立って考えるとするならば、なるべく労働者を効率的に働かせたいという気持ちはもちろん経営側にもあるものの、対外的な世間体を考えた時に、どうしても労働者に対して「非効率的タスク」を求めなければいけない時もあると思うのだ。経営者にとっては、そうした「非効率的タスク」を脳死でこなしてくれる「考えない人間」は非常に扱いやすい。一方で「これは効率的じゃない。俺のやり方のほうが効率的だ」と歯向かってくる人間は、一見組織にとっては重要な人間のようにも見えるが、経営者にとっては都合の悪い存在でしかないのだ。そう考えると、「非効率的タスク」は「利己的人間排除のためのイベント」として重要であり、組織の秩序を維持するために一役買っているという見方も出来るのである。

だから「考える人間」は淘汰される

考える人間は、やがてその効率の悪さ、非生産性に耐え兼ねてイベントを投げ出してしまうかもしれない。そしてそれを投げ出した人間は「俺は効率的なことはしない主義なんだ。投げ出した俺が1番賢い」とドヤ顔で言ったりするが、それはただふるい落とされたというだけなのである。組織に必要なのは「考えない=従順である」人間であり、現代社会においては、それが社会適合力そのものでもある。だから「組織に入る=企業に就職する」というステップを踏んだ時点で、我々に求められているのは「従うこと=考えないこと」であり、決して組織の方針にケチを付けるということはあってはならないのだ。

「考えさせる企業」の存在

今書いてきた傾向と真逆のベクトルを持つ企業も当然存在すると思う。自ら「非生産的→生産的」へのアイデアを出していかなければ結果が出ないタイプの企業である。こういう企業に関しては、業務に対する「考えること」のウエイトがそもそも大きく、単純に比較することはできないが、「考えない人間」が淘汰され、「考える人間」が昇進していくという構図が出来上がっていることが多い。こういう企業こそが「考えさせる企業」であり、ここで求められる資質は、「能力」ただ1つである。

「能力」もなく「考えない」ことも出来ない人間

つまり、「能力」のある人間は「考えさせる企業」に入り、「考えない人間」は「考えさせない企業」に入って持ち前の「従順性=社会適合力」を発揮する。この2つのタイプの人間には社会的な居場所があり、職を変えて行けばいずれは「居場所」にたどりつけるだろう。一方で、「能力はないけど考える人間」には居場所がないのが今の世の中である。持ち前の利己性から「考えない」ことが出来ず、かといって「考えるべき」世界でも生き残ることが出来ない。そういった人間は「淘汰」されるしかないのである。

まとめ

だから社会で生き残るための方策として、「能力を高めること」「考えないこと」の2種類が存在する。どちらを選んでも苦しむというタイプの人間が、今の日本には大勢いるだろう。そういった人間の居場所を確保すること、そういう人間の受け皿になるような企業の登場こそが、停滞した日本社会の救世主となるのではないだろうか。

 

kaerun4451.hateblo.jp

 完全に関係ない話ですが、「競馬が盛んな国」と「ラグビーが強い国」って互換性あると思いませんか?アイルランドニュージーランド、オーストラリアなどです。これはどちらも「イギリス文化の影響を大きく受けている」という点で共通しているからなんですよね。スポーツはその国の地理や歴史に大きく依存するものです。東京オリンピックを前に、スポーツをそういう視点から見てみるのも面白いかもしれません。それではまた明日。

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