凱旋門賞、終わりましたね。
— ビタミンSお兄ちゃん🐴 (@oniichan0715) 2019年10月6日
みなさん、日本はどんなかんじですか??
こちらは、こんなかんじです。#凱旋門賞#ヴァルトガイスト#隣のおっちゃんと#仲良くなったよ pic.twitter.com/9TGQJCfldo
先週は凱旋門賞があり盛り上がったが、そんな中でちょっとした炎上騒ぎがあった。凱旋門賞を現地観戦していた競馬芸人(ツイッターのフォロワーが数万人いるようで、そこそこ有名なのかな)が、レース後に上に貼ったツイートをして炎上。「寝転ぶのはやめたほうが。。」みたいなソフトなリプから、「日本の恥だ」「2度と競馬に関わるな」等のヘビーなリプまで散見された。しかもその芸人は、そういうリプをしてきた人を片っ端からブロック。当該ツイートも削除せず、謝罪もなし。こういった態度から炎上が拡大し、競馬ファンを中心に火はまだ燃え広がり続けている。
「自分が良かれと思ってやったことでも実際やってみたら悪いことだったり、自分が面白いと思ってやったことでも実際やってみたらつまらなかったり。ってことは生活していれば少なからずある。そういうことが起きてしまった時に、自分の間違い、過ちをすぐに認め、素直に謝ることが大切なのさ」
実家近所の駄菓子屋のおばあちゃんが言ってました。
まあ一時の感情の昂ぶりだったり、衝動的な部分で間違いを犯してしまうということは誰しもあると思う。当然その間違いは指摘されるわけで、その「指摘」をマイナスに捉えないで、プラス材料として自分の経験に落とし込んでいくことが大切なのではないだろうか。ミスから学べることは非常に多い。それは馬も同じで、無敗のダービー馬がなかなか誕生しない理由もここにある。負けから得られる経験値は、勝ちから得られる経験値よりも圧倒的に多いのだ(ずっと負けてる馬が勝った時なんかは逆ですけど)。
とまあそんな話はどうでもよくて、私が今日議論したいのはこの「リプライ」をしている人達についてである。
例えば今回の例において「リプライ」を送った人は、「レース場(欧州においては紳士的であるべき場所)において、客席で自分勝手に横たわるという行為は、その場にいた外国人たちに「日本の競馬ファンはモラルがない」と印象付けてしまう可能性があり、良くないのではないか。やめてほしい」という至極真っ向な意見を、当事者に向かって指摘しているだけであり、何も間違ったことはしていない。実際にそういう指摘は必要だとも思う。
「リプライ」した人達が、なぜそういう指摘をする気になったのか。これは紛れもなく「正義感」によるものだと思う。ただ正義感を行使するためには、本来人は「勇敢」でなければいけない。しかしSNSの世界では、相手側がその場にいないことから勇敢である必要がなくなり、誰でも簡単に正義感を行使することができるのだ。言わずもがなではあるが、これはプラスの側面ばかりではない。
簡単に言うと、この「正義感」の敷居の低さが、正義感を「暴走」させてしまうのである。要するにやりすぎてしまうのだ。悪いものは袋叩きにし、完膚なきまでに叩きのめす。正義の名の下に。
これはよくないだろう。その対象とする悪が完全なまでの悪であり、自分が完全な善である保証はないわけだし、相手側にも思慮されるべき「事情」があるかもしれない。ましてやツイッターなんてたったの画像4枚と140文字の情報であり、それが正確がどうかもわからない。そういう可能性を全て棚に上げて、悪いものは悪いと言って徹底的に叩きまくる。確かに悪気はないわけだし、悪いことをしているとも一概には言えないのだけれども、どうしても「それはどうなの?」「それは本当に正義なの?」と思ってしまうのだ。
神戸市立東須磨小学校の
— 特定係 (@T_ukyousan) October 9, 2019
教員いじめの加害者4人! pic.twitter.com/COqKyzI2Sg
例えばこんなのもそう。リツイートした人なんかは「正義感」から拡散してあげようとなったんだろうけど、ソースも何も示されていないこの情報が確かな情報かなんてわからないのではないろうか。こんなツイートなんて何にも関係ない人の写真でも成立するわけで。そういう可能性がある時点で、そのリツイートは純粋な「正義」とはいえないのではないだろうか。
だから「正義感」はSNSをダメにする。リプライは慎重に。それではまた明日。