かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

人類総不平等理論について考える。

不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)

不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)

もし人間の能力を完璧に数値化することができるとしたら、全ての人間を1位~70億位までランク付けすることができる。という発想を持ったことはないだろうか。最近、「画一化」やら「平等」やらという言葉が流行っていて、「同じ人間なんだから努力すれば誰でもできる」という理論の根源になっているわけだが、その理論は本質的には成立しないのではないかと感じている。理由を話したい。

例えばの話を極端にするが、お前と大谷翔平という2人の人間がいたとして、そこに平等はあるだろうか。ない。断じてないのだ。大谷翔平のほうが能力的に上である。そういう話は全人類のどのツーペアにおいても適用されうるという認識が、個人的には正論だと思っている。

本の学校教育の話をする。30人いるクラスがあったとして、そのクラスの生徒全員を対象に、将来的に誰が一番成功するかというゴールを設けてレースしたとする。その際に教師は、30人の生徒に対して等しくオッズ22.5倍で接するという鉄則に従わなければいけないのだ。正直これは効率が悪い。全員がオッズ22.5倍になるはずがない。人間の場合まず基礎能力で差がつくし、生まれた環境によっても差がつくのだ。金持ちの家庭に生まれれば当然成功する可能性は高くなる。オッズも下がるだろう。正直な話、小学校や中学校の時点でオッズ100倍を超える人間はザラにいると思う。

オッズ100倍の人間が、努力してオッズ5倍くらいの上位層の人間を超えることは基本的に無いと思う。人間の「個体差」というのは、残酷ながら自然界よりも明瞭に生活の質を左右するのである。

だから下位層の人間が上位層の人間に対して同じフィールドで勝負しようとするのは辞めたほうがいい。下位層の人間には、学校ではオッズ22.5倍として扱われていたがために、上位層の人間ともいい勝負ができると「幻想」を抱いているやつが多い。だがそれは紛れもなく「幻想」だ。勝負しなくていい。勝負しようとするからみじめな気持ちになるのだ。

でも人間だからどうしても勝負したくなる時があると思う。そういう時は正攻法で努力しようだなんて考えないほうがいい。相手をかき乱すことに専念したほうがいい。競馬に例えるなら「大逃げ」か「後ろポツン」だ。上位層の人間は下位層の人間に乱されることを極度に嫌がる。そこに隙が出来るのだ。その隙を突け。道悪の最後方から空いた内を突け。オッズ100倍の人間にはオッズ100倍ならではの人生の楽しみ方があるだろう。人気を背負ってちゃ自由にレースできないじゃないか。

私が大谷翔平だったらきっとこんなブログは書かない。それではまた明日。