かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

引きこもりを生かそうが殺そうが親の自由だ。

親の「死体」と生きる若者たち

親の「死体」と生きる若者たち

なぜ引きこもりを擁護する?

 

私は差別と偏見にまみれたちっちゃい人間であり、寛容な心を持ち合わせていない。だから最近の川崎殺傷事件から始まった一連の引きこもり擁護の流れに対して納得がいかないというか、違和感を感じてしまうのだ。

そもそも引きこもりというのは我々が飯を食べるために一生懸命働いている最中親の作った飯をタダで食べているわけで、それに対してズルいという感情を抱くのは至極当然のことではないだろうか?確かにその人が引きこもりになった要因というのはその人自身にはないのかもしれないし、この生き地獄の世の中では社会を遮蔽したくもなるような出来事も多く起こるだろう。だからといって引きこもりを擁護しようということには絶対にならないと私は思うのだ。奴らは少なくとも我々から見れば絶対的にズルいというかセコい人種であり、我々社会の「中」にいる人間から軽蔑され罵倒されても文句は言えない立場にあるのだ。

非生産的な個体

 

いわば引きこもりは非生産的な個体であり、自然界において生産的な個体が非生産的な個体を淘汰(時には殺害、共食いなど)をするというのはよくみられる現象である。人類においても普遍的にそれが起こってもいいと私は思うのだが、人類の、特に日本人に関しては、家族というコミュニティが強固に存在する関係上、必然の淘汰から「親」が非生産的な個体も保護するという事象が発生してしまうのである。これによって、非生産的な個体を淘汰するかしないかの決定権は、「生産的な個体」から「親」へと譲渡されたのである。

親は決定権を持つ

親は非生産的な個体を作り出してしまった責任を負うことになる。子供は自分が産まれた責任を親に求めてもいいし、親以外に求めてもいいわけだが、親は子供を産んだ責任を必ず背負わなければいけない。

もし自分が産んだ子供が非生産的な個体になってしまったとして、それを生かしておくべきか殺してしまうべきか。それはあくまで自然の法則に従えば、親の「自由」ということになるのではないかと私は思う。だってその非生産的な個体は社会の「中」にいる我々にとっては関連することができないもの(川崎殺傷事件のように間違って社会に紛れ込むこともあるが)であり、関連できる親には適切な処理を施す「必要」があると思うからである。私はその処理が、飯を食わせることであってもいいと思うし、例え「殺害」であってもいいと思う。親が「危険」と判断したら殺せばいいのだ。そして我々にその行為がどうであったかを批評する権利はない。この場合の「殺害」は世間一般における「殺害」とはニュアンスが大きく異なる。後者は「駆逐」を指し、前者は「淘汰」を指すからだ。

つまり、引きこもりを生かそうが殺そうが親の自由なのである。本来そこに法の裁きが下るべきではない。少なくとも私はそう思う。お前らがどう考えるかは知らないが、これに関して私の認識が変わることはないと思う。だからあの引きこもりの息子を殺した爺さんに対して、もっと「称賛」する声が上がってもいいと思う。ただ「称賛」すれば確実に炎上すると思うが。それではまた明日。