かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

お前らは罪人の心臓をナイフで刺せるか?

死刑の是非を問う

 


難しい問題について物騒な話をしたい。今の日本には死刑がある。悪いやつは法で裁かれて見えないところで殺されるのだ。これに違和感を感じるやつもいるかもしれないし、感じないやつもいるかもしれない。

司法の考え方

私は法学部ではないから詳しいことはわからない。だが死刑を執行するならばその罪人を国民の総意を持って殺すべきではないだろうか。極論ではあるが司法とはそうあるべきだと思う。民間の介入が許されないこの世の中の司法で民間で起きた出来事に対して死刑判決を下すということに無理があるのではないだろうか。

 

アメリカ人のみた日本の死刑

アメリカ人のみた日本の死刑

 

 

みんなで殺せばいい

何も私は絶対的に死刑に反対してるわけではない。もし死刑を執行するのであれば、罪人を白昼堂々人が集まる広場の真ん中にくくりつけ、市民1人1人が罪人の心臓をナイフで刺していく。そういうやり方が正しいと思うのだ。誰も見ていないところで誰にも知らずに殺すなんて、そんなの意味がない。決めるのは司法かもしれないが、罪は民間で起こったものだ。裁きは法の下ではなく民間の下で行われるべきだ。私は何か間違ったことを言っているだろうか。

無期懲役ならば話は別だ。罪人を民間から排除する。罪人は民間において死ぬわけだから、民意は必ずしも達成されるのだ。我々にとってその罪人が社会から排除されているかされていないかは重要ではあるが、その罪人が牢屋の中で生きているか死んでいるかはそれほど重要ではない。

当事者が殺せばいい

もし自分の身近な人物が殺されたら、お前らは殺したやつを殺したくなるだろうか。それは実際に当事者になってみないとわからない。どういう感情になるだろうか。考えただけでゾッとする。

当事者は司法に介入することができる。意見を出すことができる。ならば当事者になってはじめて死刑について論じることができるのである。あいつは死刑にするべきだ。当事者が言うならば正当だ。「あいつは私の愛する人の命を奪った。よってあいつは死ぬべきなのである」これは全うな意見だ。

我々外野が死刑を論じるということ

 

だが外野が言うのは違うと思うのだ。「あいつは人殺しだから社会に置いておくべきではない。排除すべきだ」これならわかる。だが「あいつは殺人を犯したから死ぬべきだ」この発言に正当性を求めるのはややおかしい。そもそもその発言はお前らが自分が人殺しになる覚悟がないから言えるのだ。さっき書いたが、お前らは広場の真ん中に張り付けられた罪人の心臓をナイフで突き刺すことができるだろうか。私は出来ない。出来ないから死刑に賛成することはできないのだ。自分が罪人の心臓をナイフで突き刺す覚悟がないのも関わらず、あいつは悪い奴だから死刑にするべきだと無責任な言動を繰り返し、それを全く疑問に思っていない。これはどうなのだろうか。

司法が民意と独立すべきだという意見は果てしなく正しい。そこに死刑を執行すべきかすべきでないかの答えは隠されているはずだ。それではまた明日。