かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

知識がある人間は偉いのか?

知識がある人間が偉いという風潮

NHKの某番組ではクイズに正解できないと「ボーっと生きてんじゃねーよ」と叱られるらしい。見ていて不愉快にならないのか甚だ疑問だが、視聴率がいいということはそれだけ今の日本人が知識に対して飢えているという証拠なのだろう。

 

チコちゃんに叱られる!

チコちゃんに叱られる!

 

 世の中には知識を持っている人間が偉いという風潮がある。確かに知識は生活に彩を与えるが、別に知識を持っている人間が偉いということはないだろう。学歴社会においては知識をたくさん持っていることよりも、知識をいかにアウトプットできるか、応用して運用できるかが鍵を握るのだ。ただ知識を詰め込むだけで満足していては、それこそボーっと生きていることになるのではないだろうか。

知識のアップデート

完全に持論にはなってくるが、知識をたくさん詰め込むことのデメリットについて一つ提唱しておきたい。知識がたくさんあることによってそこに慢心が生まれる。自分が他人よりも知識を持っているということでマウントが取れるからだ。これは今の社会では知識を持っている人間が偉いということになっているのだから仕方ないことだろう。

 

センスは知識からはじまる

センスは知識からはじまる

 

 

だが知識というのはアップデートが必要なのだ。社会というのは刻一刻と変遷していく。この時仮に自分の知識に慢心があるとすれば。それは知識のアップデートに支障をきたすことに繋がると私は言いたい。凝り固まった大量の知識が、特定の知識の改変を阻害するのだ。結局知識というのは量よりも質なのだ。最新でなければ意味がない。しかも脳のキャパシティーにはおのおの限界がある。すなわち取捨選択の必要性が迫られるのだ。だから知識ならなんでもかんでも詰め込めばいいというものではない。しっかりと自分に必要な知識かどうかを精査し、アップデートを忘れない。これが大切だ。この世に老害が生まれるのは知識のアップデートがなされないためだ。お前らが将来若いやつから頭の固い人間だと言われないためにも、しっかりと知識をアップデートしていくことが重要になってくるだろう。

固定観念の危険性

 

古い常識に対して固定観念を抱いてしまうのは仕方ないことかもしれない。自分の信念というものはなかなか変えることが難しいからだ。だが先述のとおり社会というものは刻々と変化している。自分の知識だけでなく思想もアップデートを必要とされる可能性が出てくるわけだ。この時固定観念というのは非常に邪魔になってくる。特にそれが自分の信条となっているものであれば、それを取り壊すのは容易ではない。

私がここで提唱したいのは、人生に信念や信条といった一本筋が通った固いもので方向性を持たせるのではなく、コンセプトという柔らかいもので方向性を持たせたほうがいいということだ。例えばこのブログのコンセプトは「貧乏でも貧しくならないこと」「生活にもっと自由を与えること」の2つだ。これは解釈次第でどういう形にもなるので記事の幅が広がる。もし私が以前書いた記事と違う意見の記事を書いても、コンセプトの範疇に収まっているということがあるかもしれない。ところがこれが「貧乏人を救いたい」というような信念みたいなものだったらどうだろうか。当然記事の幅も狭まってくるし、意見を変えることは容易ではない。それこそ固定観念を崩せないことに繋がってしまう。だから人生や思想には常に幅を持たせたほうがいいと思う。緩くコンセプトを掲げて緩く生きてもいいじゃないか。それで他人に「ボーっと生きてんじゃねーよ」と言われる筋合いはどこにもない。ボーっと生きるというのは柔軟な生き方とも取れるわけだ。その方が成長にも繋がるとも私は言いたい。

さて桜花賞。WINS浅草からバイト先に直行するので回顧と結果発表は深夜に。それではまた。