かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

正論の中で死ぬ人間がいることを忘れるな

23歳になってしまった

 

本題に入る前に何個か書きたいことがある。4月3日は私の誕生日だったかもしれない。23歳になった。実感はない。とにかく私は23歳になっても生きていかなければならない。これは確かだろう。誕生日に年を取ったと感じるやつも多いだろう。寿命が迫っていると感じるやつも多いだろう。だが私にとっては残りの人生が1日であろうが100年であろうが関係ない。私は今日を精一杯生きるだけだ。だから私にとって今日は誕生日ではないのだ。そんな365日のうちの1日だから特別だという言い方はされたくない。私にとって特別な日は給料日だけだ。今日という1日は私の人生の全てでしかない。

ところで、私は貧乏だから生まれてから自分の誕生日を盛大に祝われたという経験はない。でも毎年母親が夜遅くにショートケーキを持って仕事から帰ってきた。そのショートケーキを食べるだけで十分だった。私にとっての誕生日はそれ以上でもそれ以下でもない。だから「誕生日おめでとう」と言われようが何も嬉しくない。何もめでたいことは起きていない。

私はウオッカを知らない

ウオッカが死んだというニュースを見た。私はウオッカの現役時代を知らない。だから多くは語れない。偉大な馬だ。競馬歴数年の私がどうこう語れる馬じゃない。合掌。牝馬でダービーを勝つ馬が私の生きている間に再び現れるだろうか。平成はまた1つの記憶を私たちから奪い去った。だからウオッカは平成の中で永遠に生き続けるだろう。本当の天才は長く生きることができない。世の中の性なのだろうか。

 

 正論の中で死ぬ人間がいることを忘れるな

今日は正論というのものを絶対的に美化することによる危険性について議論したい。どんな物事にも二面性があると言いたいのだ。言いたいことがわからないだろうから具体例を出す。最近子供の運動能力が下がっているというニュースを良く目にする。それを解消するためにマンション街の一画に公園を作る。そういう計画が持ち上がることだろう。これは正論であり、お前らはなんら不思議に思わない。マンションの子供たちは公園で遊ぶことができ、運動能力が高まる。地域住民の憩いの場にもなり、緑があることで街の空気も良くなるだろう。こうして「公園を作る」という行為は絶対的に美化され、誰も疑わないのだ。ここに危険性があると私は提唱したい。

A君はマンション街に住む小学生だ。A君は家の中でゲームをしたり漫画を読んだりするのが好きだ。ところがA君の住むマンション街に公園が出来たことにより、仲の良い友達は公園で遊ぶようになった。A君は公園で遊ぶのはあまり好きではなかったため家でゲームをしていた。するとA君は学校で孤立するようになった。A君の学校生活は公園によって殺されたのである。世の中のいろんな正論の中にA君は必ず潜んでいるのだ。

お前らにはこのことを忘れてほしくない。絶対的に美化できる正論なんか存在しない。何かを達成するためには何かが犠牲にならなければいけない。何かが生きるためには何かが死ななければいけない。こうして世の中は成り立っている。そのことを忘れるな。忘れないだけでいい。心に留めておくだけでいい。私は常に正論による犠牲者に目を向けられる人間でありたい。物事を一面的にしか見れないような人間にはなりたくない。正論の中に死ぬ人間がいることを忘れるな。今日はこれが言いたかった。

沖縄が揺れている

これに絡めてちょっとタイムリーな話題に触れたい。沖縄が揺れている。世論が二分されている。双方は自分の意見を絶対的に美化して論じている。これでは先には進まない。物事を二面的に見れない人間がSNSにうじゃうじゃわいている。気持ち悪い光景だ。国の言い分は正論かもしれない。基地建設反対派の言い分も正論かもしれない。だが代替案はない。正論の中に死ぬ人間が必ずいるのだ。まるで死ぬ人間がいないかのような論調で議論を進めていては相手には伝わらない。正論を言う時に、どのような人間が死んで、死んだ人間に対してどういったケアが出来るのか。これが本質じゃないか?本質の部分が全く議論されていない。現地住民はこれでいいのだろうか?沖縄の明日が心配だ。それではまた明日。