かえるん日記

当たった時は謙虚に。外した時は冷静に。

センター試験国語についてボロクソに言う

林修に挑む

 

これから林修とその信者が飛んできそうなブログを書いていきたい。センター試験国語に苦しめられたという人は多いのではないだろうか。理不尽とまでは言わないが苦手な人間にとっては本当に苦痛な科目だ。そもそもセンター試験のコンセプトは「頑張った分だけ点数が上がる」というものだ。他の教科はそうかもしれない。社会は暗記が全てだし、数学・理科はしっかり時間をかけて理解を深めれば点数が上がる。英語だって頑張って地道に読んでいけば結果につながった。だが国語だけは努力ではどうしようもなかった。200点満点で48点を取ったこともある。百歩譲って古文漢文は良しとしよう。対策のしようがある。だが現代文はなんだあれと言いたい。人によって捉え方の異なるものを選択肢で選ばせるというのはどうなのか。しかも配点がかなり高い。実際私も国語がかなりの不利となった。私は軽度の読字障害に加えて感性がめちゃくちゃであるがゆえに小説をまともに読むことができない。速読することもできなければ精読することもできない。四面楚歌だった。私のような思いをする受験生を少しでも無くしていきたい。その一心で書いている。

 

 

センター国語がいかに異常か

 

私が言いたいのは国語の問題がセンター試験のコンセプトから逸脱しているということだ。純粋な読解力が問われるわけでもなく、努力が最も反映されにくい。つまり運ゲーの要素が強すぎるのだ。言い訳だと言われればそれまでかもしれない。お前らの中には勉強すれば国語の点数が上がったと反論する人もいるかもしれない。だがそれはセンター試験の国語を解くための特殊な技法により点数が高められたのであって、純粋な読解力アップに時間を費やしたやつは努力を無効とされたがゆえにお前の偏差値が相対的に上がったものだ。他の科目ではこういう現象はまず起こらない。純粋にその科目の能力を上げることがセンター試験の点数アップに繋がるし、センター試験の点数アップのための勉強をすることで、純粋にその科目の能力アップにつなげることができる。大学側としては努力の度合いとその科目の理解の度合いをバランス良く精査することができるのだ。ただセンター試験の国語は努力の度合いも理解の度合いも完全には精査できない。あんな問題で人の学歴が決まってしまうのかと思うと今でも身震いがするほどだ。

 

異端のススメ

異端のススメ

 

 

じゃあどう改善するか

 

私から提案だ。センター試験なのだから国語の問題は漢字や慣用句、文法などに多くの点数を配分すべきだ。他の科目は知識問題の配点がかなり高いのに対して、国語は読解力という応用的要素の点数配分がかなり高い。これがセンター国語が異質たる最も大きな要因だろう。慣用句や文法などは膨大な暗記が必要だ。つまり国語の点数を取るには努力が必要になる。これでセンター試験のコンセプトと一致するだろう。まあセンター試験は泣いても笑っても今年が最後だ。受験生が悔いなく受験を終えられるようにセンター国語の抜本的な改革を要求したい。出来る人にとっちゃただの国語出来ないやつの言い訳に聞こえるかもしれないが、同じことを思っているやつが必ずいるはずだと思いこのブログを書くことにした。林修がこのブログを読んだら批判をするだろう。きっと正論をぶちかまされて論破されるに違いない。それはそれでいい。だってこれは私の主観的要素がゴリゴリに入った文章なのだから。だが一考の余地があるのではないだろうか?センター国語の異質性は専門家によっても議論されている。私は自分が間違ったことを書いたとは思わない。共感してくれる人が一定数いると信じて疑わない。センター国語は変わる変わると言われて結局変わらなかった。じゃあいつ変えるか?まさに今でしょ。

 

いつやるか? 今でしょ!

いつやるか? 今でしょ!

 

 

アパートの前でスズメバチが死んでいた。きっと暖かくて出てきたが寒くて死んだのだろう。まるで大学デビューをしようとした陰キャのようだった。合掌。春はまだ先かもしれない。それではまた明日。